実録ドキュメンタリー連載「ファン活」第4回


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 二束三文で手に入れたMAXのCDを聴いた。初期のほうのアルバム2枚である。
 聴いた結果として、やっぱりMAXはすごい、と思った。なぜなら、CDの内容は本当によくなかったからだ。MAXのことだから音楽的にいいものなんて特にないんだろうな、ということは前もって覚悟して聴いたのである。しかし実体はその見通しを軽々と乗り越えるほどのものだった。アルバムなので、それぞれ12ほどの曲目が収録されていたのだが、片道40分ほどの通勤中にカーオーディオで流したところ、曲と曲の継ぎ目がほとんど判らない。再生開始10分後も、20分後も、30分後も、ずっと同じ曲のように聴こえる。そしてそのずっと同じ曲というのが、電子音電子音した電子音の伴奏に、要所要所でやけに英語になるぼんやりした歌詞がMAXたちの歌唱で乗っかるという、本当にMAX以上でもMAX以下でもないMAXの曲で、ちょっとおもしろいと思ったのが、この90年代後半というのは、創作にコンピュータが駆使されるようになった初期の時代で、当時のCGアニメなんかをいま観ると、ポリゴンポリゴンしたカクカクさに驚いたりするのだが、MAXの電子音電子音と、当時のアニメのポリゴンポリゴンは、聴覚と視覚において、その具合がまったく同じトーンであるように感じた。それから20年ほど経って、人類が進歩したのかコンピュータが進化したのか(ほぼ間違いなく後者なのだが)、コンピュータはとてもなめらかに創作に活用されるようになったので、だとすればこの打製石器時代のようなコンピュータ感の音楽には、もしかすると人類史上で一定の価値があるのではないかとさえ思えてくるのだが、それはあくまで机上論であり、スピーカーから流れ出てくるメロディとしては、本当に退屈である。もちろんMAXなので、音楽的には激しくダンサブルな部類になるのだろうが、斯様にあまりにも単調であるがゆえに、激しさを激しさとも思えなくなってきて、だんだんと漫然とした浪曲でも聴いているような気分になってくる。そのため、しばらくすると猛烈な睡魔に襲われた。ただでさえ眠たくなりがちな平日の車通勤中に、浪曲のようなMAXを流すのは、やんわりとした自殺行為ではないかとさえ思え、リピート再生でふた回りめに突入してさらに聴き込もうという発想は浮かばなかった。たぶんもう二度と聴かないだろう。
 でもCDを聴いた結果、ぜんぜんよくなかったから、僕がMAXのファンを辞めるか、と言ったらもちろんそんなことはない。だって別に僕はMAXの音楽のファンではない。ファンになったMAXが、たまたま音楽CDを出していたので、義理で聴いてみた、という程度のことである。スポーツ選手とか、俳優とかが、ちょっと歌がうまいからってCDを出したりすることがあるだろう。MAXのCDって、そういうものだと思う。世間の人々はもしかしたら勘違いしているのかもしれないが、別にMAXの本分は歌い手ではない。じゃあなにか、と言われれば答えに窮してしまい、思考停止した人がドヤ顔で言いそうな、「MAXはMAX」なんてフレーズしか浮かばず忸怩たる気持ちだが、しかしMAXと触れ合う以上、ある程度は思考を停止させるくらいでちょうどいいのかもしれないとも思う。我ながらMAXに対する思いが複雑すぎてよく分からなくなってきた。
 それにしても安かったとはいえ、買った以上は手元に物体が残ってしまい、もう二度と聴かないだろうことを思うとなんとなく目障りだ。二束三文で買うよりむしろ高くついたとしても、レンタルでよかったような気さえする。しかしそんなほろ苦CD購入だったのだが、よかったことがひとつだけあった。買ったCDのひとつに、こんなものが封入されていたからだ。


 あの、バースデーカードの、ロウソクの立ったケーキが飛び出してくるみたいな感じで、MAXの4人が立体的に飛び出てくる、1998年のカレンダーカード。
こういうことなんだよ、と思った。こういうのがMAXの魅力なんだよ。この飛び出てくる感じ。使われた写真のよく分かんない感じ。「1998」という字面。さらにはカレンダーが実は1月から6月の半年間しかないところ。これがMAX。全体的になんとなくうすらショボい気持ちになる感じ。これがMAX。これはとてもMAX性が高いアイテムで、これだけで、わざわざ購入したことが救われた。
 あー、MAXファン愉しー。

 第5回につづく